和光小学校幼稚園校園長ブログ「子どものなる木」「ことばを育てる」その3 ~2022年度和光学園報特別号 座談会より~


この秋発行の和光学園報特別号では、「ことばを育てる」と題して4月から理事長に就任された小森陽一先生と和光鶴川小学校の橋本先生、和光高校の畠中先生の座談会を企画しました。

7月末に行った座談会は、鶴小と高校の授業にとどまらない“ことば”と向き合う実践、さらには小学校の美術教育や幼稚園のげき作りにも拡がり、あっという間に2時間あまりの時間が過ぎていきました。

学園報は紙幅の関係で前半、それも大きく割愛した内容しか掲載することができませんでしたので、このブログで紹介させて頂きます。


最後は、小学校や幼稚園で文学作品を読みあうことが美術の作品や劇で表現することにつながっていくこと、さらに、高校生が文学作品と出会うことの意味について語り合いました。




【和光学園報 座談会 ことばを育てる】  2022年7月26日

◎出席者:小森陽一理事長・ 畠中由美子先生(高校)・橋本紗弥先生(鶴小)

◎司会者:北山ひと美(和光小幼校園長)



絵本を使って文学作品をみんなで読むこと


小森理事長)小学校1年生だと、そういう読み物の教材というのは、何が一番最初に載ってるの?教科書に。


橋本先生)最初に出会う物語は『おおきなかぶ』で、3学期には新美南吉さんの短編『かごかき』や『あめだま』を読みます。声に出して演じてみたりしながら読みますが、1年生は思ったことがいろいろ出るから面白いなって思います。「あ、そういうふうに読んだんだ」とか、動作化する中にも、一人ひとりの思っていたイメージが違ったりするのが出てくると面白いです。


小森理事長)例えば『おおきなかぶ』で言うと、あの話でそんなに違いは出てこないんじゃないかと思いますが、実際にはどうでした?


橋本先生)そうですね。「おじいさんがかぶの種を『蒔きました』」って教科書には載ってるんですが、原作では『植えました』となっています。「『蒔く』と『植える』って何が違うんだろうね?」というところで、子どもたちは議論になったことがあります。「『蒔く』はパパパっていう感じなんだけど、『植える』っていうのは大事に置いてる感じじゃない?」ということが動作化する中でわかってくる。「じゃあ、おじいさんは、種をそれだけ大事に、土に埋めてったってことだ!」と。一つのことばですが、違いを示すと議論になることがあります。でも初めて読む話なので、声に出して実際にやってみて音を楽しむ。「うんとこしょ。どっこいしょ」っていうのを純粋に楽しむところももちろんあります。お話によってことばの一つ一つにこだわって読むより、楽しんでどんどん読んだ方がいいお話もあれば、ここは情景をイメージしてじっくり読みたいな、というのもあります。いざやってみるとそう上手くもいかなかったりするときもあって(笑)「国語って難しいな」って、いつも思います。


小森理事長)でも、『植える』と『蒔く』の違いが論争になるってすごいですよね。つまり、ニュアンスの違いが、『蒔く』は絶対ばら蒔きだよね。漢字もそういう漢字。『植える』はこれだよね(『植える』仕草と共に)。だから、やっぱり「植えないとあの『おおきなかぶ』は出てこないでしょ」みたいな。そういう、物語の読み方にも関わる。でも小学校1年生でそういう議論が出来るの?


橋本先生)そうですね。でもうまくことばに出来るわけじゃないので、『蒔く』ってどういう感じっていうのも、説明できるわけじゃないから、やってみて「こうやってこうやって、やる感じ!」とか「『植える』はこういう動き」とか動作化する中で、「あぁ~」とわかってくるのですが。


小森理事長)でもそれって決定的に重要なことだよね。つまり、現実の、人間の身体と自然界との関わりにおける、人間の身体の、植物の種をめぐる動きがどう異なっているのかっていうことを、ちゃんと『植える』と『蒔く』で1年生が区別した。それって、どこの辞書にも説明がされていないことだから、その瞬間だけでも、ことばと現実との関わりをめぐるすごい体験を、そのクラスの子たちはしたんだと思いますね。だって、「『植える』と『蒔く』はどう違う?」って言われて、そんなに明確に説明できませんよね。でも、そういうことが小学校1年生で出来ちゃうんだね。面白いね。でも哲学的な問題でもあるよね。作物の種に対するおじいさんの、大事さの認識と実践が関わってるってことが(笑)


橋本先生)(笑)そうですね。結構序盤でその表現が出てくるので、逆にそこを読んだからこそ、その後に、おじいさんがかぶを大事にしてるということがわかります。


小森理事長)「一生懸命育てるっていうのは、絶対『蒔いて』ない、『植えて』るよ」みたいな。


橋本先生)繋がっていった感じがありました。


小森理事長)そうか。そうやって、物語のストーリーから、使われてる一つのことばのニュアンスをちゃんと正確に認識することも出来るわけだね。


橋本先生)そうですね。ことば一つにしても、一人で読むとスーッと読んでしまうことも、注目してみると、そこからおじいさんのかぶへの気持ちがわかったり、そういうことを大事にしたいなぁと思っています。でも一個一個にこだわっちゃうと、そのお話のリズムもあるし、逆に「つまんないな」となってしまう場合もあるから、どこに注目しようかな、どういう聞き方にしようかなと考えます。面白さでもあり、難しさでもあるなぁとやるたびに感じてますね。


司会(北山)『おおきなかぶ』は絵本を使いますよね。教科書じゃなくて、長細い、昔からの「こどものとも」で。あの絵から読み取るというのもいいですね。2年生ではモンゴルの昔話の『スーホの白い馬』、あれも赤羽末吉さんの絵から読み取る面白さというのもあり、絵とことばと、更にそこに動作が絡んで、それぞれの子どもの視点で読んでいく面白さがありますよね。


橋本先生)そうですね。『スーホの白い馬』も教科書に載ってるものですが、挿し絵が全然違う。


司会(北山)ことばも一部変わっていたりするんですよね。


橋本先生)そうですね。ですから、『スーホの白い馬』の絵本は一人一冊購入をして、それを使いながら読んでいくと、その意味ってすごく大きいなと感じます。モンゴルと言っても、開いたときの、バっと広がる絵の感じとか。そういう意味では、教科書で読むと得られなかった読み方というのが、原作のものを使うとあるなぁってすごく感じますね。


畠中先生)『スーホの白い馬』を、うちの息子が授業を受けて読んだときに、草原のシーンで草がそよいでいるのを見つけて「風が吹いてる」と。それを加川先生が「すごい!」と言ってくれました。ちょうど鶴小に入ったばかりで、それを拾ってくださって、その気付きにすごく感動してくださったことが、すごく嬉しかったみたいですね。


司会(北山)本当に、いろんなところでいろんなことを見つけてきますよね。


橋本先生)そうですね。


畠中先生)そこに一緒に驚いてもらったり、喜んでもらうってことで、どんどん拡がります。



表現をする複数の人間の意図が、優れた絵本の中には同居している


小森理事長)今の絵本の読み聞かせのことってすごく大事なことですよ。つまり、絵を見ながら、読み聞かせって、ことばで書いてあることを読むわけだけど、そのときに、子どもたちは、目で見ている図像とことばを往復させてるわけですよね。ですから、教科書の挿絵じゃなくて、優れた絵本作家の図像が必要なんだけども、それは、その絵本の絵を描いた絵描きがことばから想像したイメージが、もう一度、彼・彼女らの絵筆と、鉛筆、クレヨンとかで再現されてるんですよね。つまり、その絵本作家のことばに対する理解と解釈と、伝達の欲望があるわけですよ。「このことばはこう伝えたい」っていう。だから、表現をする人間の複数の意図が、優れた絵本の中には同居してるわけですよ。それを、ちゃんと子どもたちに伝えるっていうことはね、とりわけ、学齢期前の子どもたちにはすごく大事なんですよ。それは、視覚的なイメージによる認識が先行しているわけだから。そこにことばが結び付いてくるんですよね。子どもたちの頭の中で、今見ている絵本の映像と、耳から聞こえてくることばが。これは、人間の脳の中での図像を認識する部分と、言語中枢って違うわけでしょ?だから、この瞬間にね、もう脳の血流がすごい事態になってるんですよ。それは、子どもにとっても快感なんです。絵本の読み聞かせって、単に「やりゃぁいいんだろう」じゃなくて、とても大事なことです。

わたしも、娘が通っていた保育園へ迎えに行くときの絵本の読み聞かせは、ものすごく頑張ってやってたんですよ。でもね、それは私自身のことばと絵の解釈の水準の問題が問われていて、「ここをどういう声にするか?」っていうのが、その瞬間、絵とことばを、私が自らの身体を媒介に、どう子どもらに伝えるかっていう役割になるんですよね。それは結構大変なこと。だからね、親は、絵本の読み聞かせは全力でやった方がいい(笑)そこには、人間の本質的な問題が、やってると見えてくるんですよ。「おぉ~、そうか!」って。いや、だって子どもたちの眼差しもあるでしょ?こう開いてて、「え、何でそこばっかり見るの?!」って。


一同)(笑)


畠中先生)ありますあります(笑)


小森理事長)でしょ?子どもたち、全体は見ないんだよ。その瞬間に、「この絵本作家は、そういうふうに伝えようとしてるんだ!」っていうのはね、子どもの眼差しから教わったことが多いんです。そうすると、「昨日までの読み方じゃダメだよね」、あの子どもの目線に応える声の熱さみたいなものを明日は出そうと。(笑)



物語のイメージを絵にする、げき遊びで演じる


畠中先生)鶴小では『むくどりのゆめ』(濱田廣介作)などの物語の絵を美術で、取り組みます。(和光小も)


小森理事長)あ、そういうのなさったりするの?それも観たいな。


畠中先生)美術展も毎年すごく楽しみです。どこに注目したかっていうのが面白いです。


小森理事長)それも面白そうだね。その実践は大事だなぁ。


司会(北山)1年生はウクライナ民話の『てぶくろ』、2年生が『手ぶくろを買いに』(新美南吉作)。3年生で『むくどりのゆめ』の物語を絵にします。


小森理事長)それで出来た作品はどうするの?


司会(北山)2月末に美術展があり、全員の絵を展示します。


小森理事長)でも違うでしょ?それぞれ。


橋本先生)全然違いますよね。


司会(北山)全然違う。


橋本先生)全然違うから、毎年びっくりする。


小森理事長)あぁ~、それは重要な実践をなさってるなぁ。


畠中先生)「ここに注目してるんだ」とか、「ここすごく大事に描いてるんだなぁ」と。


小森理事長)それは大事ですよ。もっと、図像も含めて、そういうの、一度、年次決めて一冊にして。


司会(北山)2月に両小学校ともに美術展をやりますので、是非小森先生観に来てください。


小森理事長)あ~、それは観に行きます。


司会(北山)本当に、毎年一人ひとり違うので。


小森理事長)それはなかなかやってないでしょ、他の学校で。


司会(北山)そうなんですよ。


小森理事長)そうでしょう?それもっと自慢しなきゃ。和光の誇りにするべきですよ。


司会(北山)そうですね。本当に、和光の美術科は、とっても力を入れてます。


小森理事長)それは絶対特筆すべきことですね。だって、子どもたちも友達の描いた絵で違いがわかるわけでしょ?「そこか!お前は」って。それは、大事な教育的なツールになってると思うなぁ。すごい実践やってますね(笑)それは、何でそういうことをやろうって?どの時代から?それは伝統になってるんでしょ?当たり前のことのように。


司会(北山)私は40年以上和光にいますが、その頃から取り組んでいました。少しずつテーマは変わってきましたが、今の作品は30年ぐらい前にはもう描いていました。美術の教員たちの研究会の中で積み上げてきたものだと思います。1年生の『てぶくろ』なんて、大人が聞くとすごく不思議な話ですよね。動物がどんどん手袋の中に入っていく(笑)ところが、子どもたちがこれを、それなりに、変だとも言わず次々と絵に描いていく。本当にみんな違うんですけどね。こんな小っちゃい手袋の周りにいっぱい動物を描く子もいれば、すっごく大きな手袋に、「動物が小っちゃくなっちゃったのかな?」みたいに描いたり。雪の降り方も全部違います。毎年みんな一人ひとり違うのがまた面白いです。


小森理事長)あ、そういう実践。それは素晴らしいわ。それ残ってる?


司会(北山)残っています。いずれは子どもには返しますが。


小森理事長)でもそれはさ、何年か分を、了承を得て、一冊の本にしたら、絶対良いと思うんですよ。


橋本先生)一つの作品を読んでこんなにも絵が変わるのかっていうぐらい、取り上げてるところと、あと色とかが全然違います。


畠中先生)でもそれをまた美術の先生がちゃんとわかってくれて。親に「雪のこの色を出したくて頑張ったんですよ」など、どこを一生懸命やってるかって一人ひとりきちんと見て伝えてくださいます。それが表現できるにはこういう方法とか、絵の具の厚さとか。


小森理事長)それも良い話じゃないですか。美術の先生のコメント付きで、うん。それこそ、和光教育の誇るべきところだと思うなぁ。だって、国語でやってるお話を、「これがいいんじゃないの?」って、多分美術の先生が、その人なりの思いもあるんだろうけども、明らかに、「このお話だと子どもたちの個性が絵に出る」っていうことを、美術の先生も何年も体験してるんでしょ?多分、「何故か?」っていうことを美術の先生なりに理解をしていらっしゃるんですよね。



「ごっこ遊び」は文学の出発点、自己から他者へ抜け出ること、即時から対峙への大きなジャンプ


司会(北山)もう一つ、幼稚園で劇に取り組みます。年長の子たちは、親に見せる劇を作り、年中と年少は、それぞれ絵本のお話からそれぞれが劇遊びを楽しみます。年少では『てぶくろ』をやることもあります。クラスによって違うのですが、それはそれでまた3歳の子たちがやる『てぶくろ』も、「はいいろぎつね」などすごく面白いんですよ。


小森理事長)幼稚園の子たちが自発的に?


司会(北山)先生が「このお話やってみようか」って。


小森理事長)お芝居にしてるのね?


司会(北山先生)お芝居っていうか、動物になりきって遊んでいます。


小森理事長)それはもうお芝居ですよ。動物になりきるっていうのは、人間が演技しないと出来ないことなわけだから。


司会(北山)すっかりなりきってますね。


小森理事長)まさにその「ごっこ遊び」っていうのが文学の出発点ですからね。自分と違うものになるわけだから。それは要するに、自己から他者へ抜け出ることで、即時から対峙への大きなジャンプなわけですよ。


司会(北山)そうですね。幼児のごっこ遊びにも。なるほど。


小森理事長)そういうの映像で残してほしいなぁ(笑)だって、それぞれの子どもたちの演技の仕方で、『てぶくろ』の絵本をどう読んだかっていうことが分かるわけでしょう?身の処し方一つ一つで。そうすると、子どもたちが絵本を読むっていう、読み聞かせを私たちがするっていう実践が、何を作り出してるのかっていうことが見えてくるはずだと思うんですよね。せっかくそういう実践やってらっしゃるんだったら、大切に残して、皆で検証出来るようにするといい。いや、なかなか無いですよ。あの絵本を絵に描かせたり、お芝居をしたりっていう、そういうトータルな教育をしてるわけでしょう?それはね、私はすごい文化的な宝だと思いますけどね。それは和光教育が誇っていいこと。何月にやるんですか?


司会(北山)幼稚園は2学期末から3学期。「そろそろやりますよ」って小森先生に声掛けますから。


小森理事長)(笑)ぜひ。観に行こう。



ことばを絵にするっていうのは、子どもたち自身が脳内現象と対話していること


司会(北山)で、絵を描いてるのは、


橋本先生)美術展は2月。


司会(北山)2月だから、秋の頃から少しずつ描き始めます。


小森理事長)それは、美術の授業で描くのね?


司会(北山先生)そうなんです。美術の授業で描くときは、美術の先生がお話を読むんです。


小森理事長)お話を読んでるの?


司会(北山)「国語の時間でやったからね」ではなく、美術の授業で。


小森理事長)美術の先生が読むの?美術の先生の声を絵にしてるの?


司会(北山)そうなんです。


小森理事長)その現場もちょっと体験したいなぁ(笑)良いなぁ。でもそれは、繰り返しだけど、ことばを通して、子どもたちが世界にどう関わっていくのかっていう、すごく大事なことです。だって、ことばを絵にするっていうのは、自分の脳の中にことばがどう定着したかっていうのを、自分で検証して、その『てぶくろ』の大きさも決まるわけでね。だから、子どもたち自身が、自分の脳内現象と対話してるわけですよ。その結果が、画面に出てきてる。


橋本先生)すごいレベルの高いことをしてる。


小森理事長)そう。レベル高いですよ。それは芸術の基本でしょう。どれだけフルに人間の脳を使えるかっていう。その訓練をちゃんと系統的になさり続けているっていう。



高校生が文学作品と出会うこと


司会(北山)ありがとうございます。まだまだ『ことば』を切り口に、いっぱい広がっていきそうです。だいぶ下の方の年齢まで行ったんですが、高校生だと読み物教材でも、読み方なども違ってくるんでしょうが、その辺りについて、「こんな読み物を読んで、子どもたちが反応した」というようなものがありましたら。


畠中先生)ここ数年、2年生の2学期に柚木麻子さんの『フォーゲットミー、ノットブルー』っていう現代小説を読んでいます。女子高で小田急線沿線の話なので、描写などがリアルに迫ってきます。仲の良い二人で、片方の子は本当に自由で、海外で育っていて、その子に憧れる気持ちが、だんだん妬みに変わっていき、ちょっと行き過ぎてしまうところが描かれる作品です。そこに描かれるお母さんが、二人がちょっとおかしいなというような関係のところで、自分の子どもを庇うというふうにも見えるし、自分を守るというふうにも読めるのですが、結果として、お家に迎えに行ったときは良い顔をしていたんだけれども、結局は妬んだ方が片方をいじめてしまう。そのことが問題になったときのお母さんの振る舞いなども、読み方がすすごくわかれて、「自分の子どもはやっぱり可愛いから、そりゃ守るでしょう」って言う人もいれば、ここのお母さんはキャリアウーマンで素敵なお母さんとして描かれていたんだけど、「これはやっぱりおかしくない?」っていうようなことが、同じ教室で交わされたときに、最初はなかなかピンと来なかったりする、そういうのは高校生の中にもありますね。自分と自分の母親の関係や家族の関係を対象化して見たりすることは無いことなので。「いや、子どもを庇うのは普通じゃない?」とサラッと言って疑問を持たない子も、「でもこれは違和感があるし」っていうのと、更に「いや、要するに、子どもを守るように見えて、自分を守ってるだけでしょ?」というようなことばが出てきたときに、教室が「ハッ」となったりすることはありますね。でもそれは、生徒の話し合いの中で、気付きの中でしか「ハッ」とはならない、教師が言ってしまったらお終い。最初、「何か気になるんだけど」とか、「何かおかしくない?この感じ」というのを話してるうちに、「あぁ、そういうことか」となり、「だから、結局自分を守ってるからだよ」という指摘が出てきたときに、「あぁ、なるほど」って言ってる人と、「でもやっぱり親心っていうのはねぇ」と、結局貫く人もいるんですが、ちゃんと揺さぶられます。そういう教材が良いなぁと思い、国語科総掛かりで探した教材です。

ただ、あまりにもそれが身に迫って考えて苦しくなり、最後のレポートに「これを書き終えたら終わりだ」というのもありました。連作の短編小説なので、その一作目で結構毎年「面白い!」と、その後の連作を読んで、冬休みにレポートするというのを自由課題にしてきました。今年は教室で読んだレポートを精一杯書いて、すごく良いレポートが多かったのですが、自由レポートの方は、3クラス中1クラスだけは、一人も出してこないという初めての現象が起こりました。生徒に聞いたら、「すごく考えたし、教室で話したのは面白かったけど、疲れちゃった…」って(笑)あ、そうかって思いました。レポートは自分の体験も引き合わせて、人を妬んじゃう気持ちなどすごく掘り下げていっぱい書いてくれたけど、あまりにも近くなり過ぎて逆に自由レポートでは楽しめなかったというクラスもありました。


小森理事長)でも「疲れちゃった」っていうまで考えたっていうのは、すごいことですよね。高校生でそこまで受け止めるんだね。


畠中先生)そうですね。教室で読んだからだと思います。教室で読んで、他の人が言うことで「あっ、そんなふうに感じるんだ」と。


小森理事長)そうか。むしろ同じクラスの仲間が言ってることに「そう感じるんだ」って驚きや、理解できなかったりとかいろんなことがあって、それが重なってくるっていうのですね。


畠中先生)そうですね。自分がそこに共感していくということは、自分の弱さや汚さを出さなきゃいけないことだったりします。「これは人としてやっちゃいけないことじゃない?」とか、最初は正論をかざしてくる人もいて。そういう中に、汚い自分を出していかなきゃいけない。ちゃんと闇を出していくっていうことは、それはやっぱり恐る恐るで。それで、相手が変わらなくても、他に響いてくれる人がいたり、別の言い方をしてくれる人がいると、読んでいく意味が出てくる。自分が何となく気持ち悪いと思っていたこともことば化されたりする。それは疲れますよね。それは疲れますけど、でもそこに出会ってほしいなって思うんですよね。


橋本先生)でも、論破するとかそういうことでもないし、全部が共感できるわけでもない意見だと思うのですが、違う意見を面白がれるってすごいですよね。違う意見を出し合うことを面白いと思えるって、すごいことだよなぁって思います。


小森理事長)そうだよね。つまり、「自分とは全く違う印象を持った人がいるんだ」っていうことにまず驚き、それをどう受け止めるかを問われ、「なるほど」と思える瞬間には、「最初の自分の印象はどうなの?」っていう自己への問い直しにもなり。大変ですね。国語の授業(笑)


橋本先生)「疲れた~」ってなる(笑)


小森理事長)うん。素直なそのクラスの反応は、「皆頑張ったよ」って褒めてあげてもいいかもしれないね。そこまで、辛くなるまで読んだんだから。


司会(北山)ありがとうございました。「ことばをどう育てる?」というテーマで、今日はすごく面白かったし、勉強になりました。


小森理事長)いや、私が一番勉強になりました。意外な展開を、それぞれの授業でなさってるんだなって。やっぱり「和光教育すごいな」と思いましたよ。「そこまでやるんだ!」っていうね。これは本当に、ちゃんと活かして育て上げ、皆で共有して、何が大事なのかをちゃんと議論していくことが使命だと思うなぁ。


司会(北山)公開研究会などでも発表してもらえるだろうと思いますので、またそういうところで。


小森理事長)是非、機会があったら呼んでください。


司会(北山)是非、お願いしたいと思います。本日は長い時間どうもありがとうございました。まだまだお話を伺いたいところがありますが、ひとまずここで。



ことばを育てるというテーマで行った座談会、和光学園で育つ子どもたちの表現の豊かさ、仲間と繋がりあいながら育ちあっていく姿が伝わってくる、ワクワクする時間でした。

橋本先生、畠中先生、小森先生、ありがとうございました!


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